Mag-log in友人に誘われて入部した演劇研究会で、渡辺浩二は演劇にのめり込む。 演劇を通して成長していく姿を丹念に描いていく青春小説。 「僕は僕が欲しいものなんて知らない 聖北学院大学演劇研究会 入学編」 の続編になります。
view more僕は高校卒業を間近に控えた二月下旬、父とともに第一志望の聖北学院大学の合格発表へ向かっていた。両親の期待に応えられず私立を志望したことに後ろめたさを感じ、独学で受験勉強を続けてきたが、掲示板に自分の番号を見つけ、深い安堵と喜びを感じた。合格発表の後、入学までの時間を読書に費やし、穏やかな休息を過ごした。四月に入り大学生活が始まると、僕は効率的に単位を取得する計画を立て、広大なキャンパスと自由な校風に解放感を感じていた。僕が心理学科を選んだ理由は、主体性がなく周囲に流されがちな自分を変えたいという切実な願いからだった。
そんな中、講義でたまたま隣り合った松本雅人からサークル見学に誘われる。松本から誘われたのは、極力目立たずに生きていきたい僕が最も避けるべき「演劇研究会」だった。裏方でもいい、という言葉に押されてしぶしぶ見学を決めた僕は、サークル棟の多目的ホールを訪れる。そこで待っていたのは、リズムに合わせてポーズを変えるストップモーション、腹の底から声を出す発声練習だった。慣れないことに戸惑いながらも、やけくそで取り組むうちに僕の心は不思議と高揚していた。
休憩後、来月の本番に向けた真剣な稽古を目の当たりにした僕は、演出家の細かい指示やいままであまり聴いてこなかった洋楽、先輩たちの熱量に圧倒される。かつて学校行事で見た演劇には冷めていたが、物語そのものは嫌いではなかったことを思い出した。帰宅後、心地よい疲労感の中で湯船に浸かりながら、僕は「裏方ならやってみてもいいかもしれない」と、これまでの自分なら選ばなかった新しい選択肢に、静かな期待を抱き始めていた。
僕は迷った末に演劇研究会への入部を決めた。自分でも意外な決断だったが、心理学を学ぶ理由である自分のコントロールという命題が、役の感情を掘り下げる演劇に通じるものがあると感じたからだ。家族の理解も得て、平日の夜遅くまで活動する新しい日常が始まった。大学の授業は一コマ九十分と長く、キリスト教系の大学ならではの必修科目「キリスト教の世界」では、初めて聖書を手に取る。人付き合いが苦手な僕だが、同じ学科の松本(のちにガジンと呼ぶようになった)の存在に助けられ、少しずつ大学生活に馴染んでいった。
数学の授業では、基礎知識の欠如から全く内容が理解できないという挫折を味わいつつも、放課後は部室という新たな居場所に身を置く。十二畳ほどのフローリングに漫画が並ぶ部室で、背の高い田中先輩や、優しい前田先輩、アニメ声の橋本さんなど、個性豊かな面々と顔見知りになった。最初はジャージ姿の女子部員の存在に目のやり場にも困っていた僕だが、稽古を通じて次第に部内の人間関係も見えてくる。演劇の経験がない僕は、照明助手と大道具の手伝いを割り当てられた。大道具担当の佐々木先輩の指導の下、角材を五寸釘で繋ぎ、ベニヤ板を張って舞台袖の壁を作る作業は、技術家庭科の実践のようで新鮮な驚きに満ちていた。
ゴールデンウィーク返上の稽古期間、僕は脚本演出のシュン先輩が書いた台本「the end of the world(世界の終わり)」を読み、その完成度に圧倒される。友人の死から始まる後悔と喪失、そして再生を描いた物語は、シリアスとギャグが絶妙に融合した傑作だった。照明操作を担当する「旦那」こと佐藤先輩のもとで、僕はサイドスポットライトの操作という仕事は少ないが重要な役割を担うことになった。
五月の本番一週間前、舞台監督の山口先輩の指揮で「仕込み」が始まった。照明を吊り、舞台装置を組み立て、暗幕を張る。さらに舞台台を階段状に積んで映画館のような客席を作り上げ、音響台にはミキサーとCDプレーヤーを設置した。多目的ホールは一つの独立した異空間へと変貌していく。舞台上の立ち位置を示す「バミリ」や、暗転中に目印となる「蓄光テープ」の存在など、観客席からは見えない細やかな工夫を知るたびに、僕は作品を創り上げる喜びを実感していった。音響と照明を徐々に変化させる「クロスフェード」などの演劇に携わらなければ知ることもなかっただろう知識も自然に学んでいた。
そして迎えた本番前夜の「ゲネ(総合リハーサル)」。役者たちはメイクを施し、衣装に身を包む。シュン先輩の「楽しんで」という言葉を合図に、本番と同じ六時四十分、客席の電灯が消えた。サイドスポットの担当としてスタンバイする僕は、待機時間が長いので足が痺れないよう注意を払い、闇の中で蓄光テープを頼りにタイミングを待つ。劇の山場、骨折さんの絶叫に合わせてスイッチを入れる瞬間、緊張したがミスなく仕事を完遂し、客席から見た通しの舞台は、稽古時とは比べものにならないほどの圧倒的な熱量と説得力を持って迫ってきた。
照明、音響、舞台装置、そして役者の演技。世界を構成する全ての要素が一つの目的に向かって収束し、多目的ホールの空気が一変する。その奇跡のような瞬間を共有しているという実感。ゲネを終えた深夜の静寂の中、僕の心は明日から始まる五公演への期待と、自分がこの世界の一部であるという確かな充実感で満たされていた。
百五十六 打ち上げの一次会が終わり、二次会へ行く者と帰宅する者に分かれた。そのまえにナベは裕子を引き止めていた。「裕子ちゃん、そんなに時間はかからないんだけど、少しだけ時間をもらっていい?」「うん、いいよ」「ありがとう」 以前、裕子から告白された公園にナベは裕子をいざなった。「あー……最初に言っておくと、よりを戻してほしいとかそういう話をしに来たわけじゃないんだ。この公園に来るとそんな思惑がありそうな感じはするけど」「うん。懐かしいね」 裕子は憂いを帯びた表情で公園を眺める。「僕はずっと自分の中に閉じこもってて、演劇を始めてから表に出てきたって話を少し前に打ち明けたけど。そうだな。やっぱりすこし浮かれてたみたいだ。人を好きになったら付き合うものだってなんとなく思ってた。この年齢になって人を好きになったら、『普通は』付き合うんだろうなって。僕は自分がイレギュラーだってことを都合よく忘れてた」 裕子はナベのことを見ている。ナベも裕子を見つめた。「裕子ちゃんのことは演劇研究会に入って接するうちに、いつも元気だな、とか自分の意見をはっきり持ってるな、とか、自分自身に責任を持ってるな、とかそういう面が見えてきて、そういうところをすごく尊敬してた。表情がよく変わるところもなんか、嘘がなくて魅力的だと思った。……ああいや、過去形じゃないな。いまもそういうところが好きだ」 裕子は怪訝そうな表情に変わる。よりを戻したいという話に聞こえそうだとナベは苦笑する。そういう話じゃないと言っておいて正解だったな、とナベは思う。「僕は裕子ちゃんのことが好きだ。けどそれは、付き合いたいってことじゃなかったみたいだ。そもそも僕は人と付き合いたいって思うような人間じゃなかった。演劇研究会のみんなと接するようになって、人と一緒にいるのも悪くないと思うようにはなったけど、どうしたって僕は、一人の時間が大切だ。一人で居続けることが苦にならない。本さえあれば満足できる。……人を好きになったからって、ずっと一緒にいたいわけじゃなか
百五十五 本番の二日目と三日目も些細なミスはあったが集中して演じることができた。次の公演が十月になるのかもっと遅いのかわからないが、そのころには就職活動も本格化してくるので演劇に全力を尽くせるのはこの公演が最後になるのだろうとナベは考えていた。だからラストステージのカーテンコールで見た客席の眺めはしっかり目に焼き付けておいた。「打ち上げの時間あるんで、とっととバラすよー!」 舞監の山口が張り切って指示を出す。打ち上げの幹事も山口だった。ナベは大道具のパネルを分解しながらまゆに話しかける。「いやー、今回俺ほとんど大道具に関わってなかった気がするけど、ちゃんといいものができてすごいよ」「いえいえ、ナベさんにいろいろ助言もらえたので、助かりました。それに暇そうな人つかまえていろいろ手伝ってもらったので」「あー、それはまゆのいいところだね」「ナベさん、人に頼るの下手ですもんね」「全くおっしゃるとおりで」 ナベが苦笑しているとデカも会話に加わる。「ナベさん、俺もがんばりましたよ」「うん、そうだね。役者やりながらスタッフやるって大変だよね」「主役のナベさんに比べたらそんな大変ではないですけど」「俺そんなに手伝えてないからどっちもがんばったって胸を張って言えないなあ。けど大道具は成功してるわけだから、やっぱりデカもよくやったんだよ」「ありがとうございます」 作業を続けていたナベの耳に届いたデカの声は喜んでいるように聞こえた。 バラシを終え、いつものように居酒屋の俺ん家゛(おれんじ)で打ち上げが行われていた。打ち上げには全員が参加していた。「まあでも、俺が大学で初めて友だちになったのがガジンで良かったよ」「何だよナベ、そんなこと言っても何も出ないぞ」 ガジンはそう言いつつ、ナベのコップにビールを注いで取り皿に唐揚げを取り分けた。「いろいろ出てきたな。……いやでもまあ、そうなんだよ。人生の転機っていうか。俺はガジンに会うまで絶対人前で演技するようなことはしないって思ってた
百五十四 明転すると、パーカーを着たタクヤとシノブが向かい合って立っている。「コザクラさん」 「はい」 「コザクラさんと一緒に過ごしているうちに、俺はコザクラさんのいろんな面を知って、でももっといろんなところを知りたいと思った。コザクラさんが変なやつに狙われてるって聞いて、俺が守りたいって思った。俺はコザクラさんの近くにいてこれからもいろんなことを知って俺のことも知ってほしい。……付き合ってください!」 「……はい」 照れながら歩いてハケていく二人をマーサが見守っている。「……あんなまっすぐな気持ち、応援するしかないじゃないですか」 照明が切り替わり、パーカーを脱いだタクヤが現れる。「マーサ」 「はい、これで最後ですね。この薬を飲んだらタイムトラベルした記憶はなくなりますけど、やり残したことはないですか?」 「そうだな。やり残したことはない」 「それじゃあ……」 「けど、伝えてないことならある」 タクヤの一言にマーサの目が大きくなる。これはナベが裕子に伝えたかったことでもある。「俺が真剣だったからマーサも必死になって記憶まで代償にしてくれたって言ってくれたこと、本当に感謝してる。俺のことをきちんと見てくれてありがとう。この気持ちは忘れたくない」 この気持ちをナベは一生忘れないでおこうと自分の心に誓った。「わたしが覚えてますよ」 「ああ、ありがとう」 「それじゃ、タクヤさんの時代に連れてくので、薬のんでください」 「……ありがとう、さようなら」 タクヤは薬を飲んで、タイムマシンに乗り込む。「……そういうところですよ、タクヤさん」 マーサがタイムマシンに乗り込むとタイムトラベルが始まり、暗転する。明転すると役者全員が整列しており、客席に向かって一礼する。客席からは盛大な拍手が鳴り響いた。鳴り止まない拍手の中、ナベが顔を上げるとようやく観客たちの顔を意識することができた。笑顔の多さが嬉しい。ナベは公演中、深くタクヤと同化していたため、あまり観客のことを考えていなか
百五十三 照明が切り替わり、タクヤ・リヒト・マーサの三人がハケる。同時にシノブが舞台に現れ、辺りをきょろきょろと見回して時計を見る。そこへパーカーを着たタクヤが走って駆け寄る。「コザクラさん、ごめん。待った?」「待ったわよ、もう。そっちから呼んどいて」 舞台袖から帽子を被ってメガネをかけたマーサが二人とその周囲を監視している。「ごめんごめん、ちょっとその……心を落ち着けてて」「え?」「ああ、いやごめん。なんでもない」「で、どうしたの?」「その、どうしても伝えておきたいことがあって……」 そこへ、メガネをかけた歴史改変者のジンが現れ、二人を観察する。マーサがそれに気づき、電話を取り出す。「リヒトさん、やつが現れました!タクヤさんとすぐに来てください!」 マーサはジンから目を離さずにひそひそと伝える。「伝えたいこと?」 ジンはタクヤの行動を警戒し、迷いなく二人の方へ近づいていく。それを見てマーサは慌ててジンに体当りする。「うわっ、なんだ!?」 ジンは驚いて立ち止まる。「あなたこそ何よ!?あなたさては、ヤバい人ね!あなたが『ヤバい人』ね?」 マーサは叫びながら大学生のタクヤに下手くそなウィンクをする。「おまえのほうがおかしいだろ!」 二人に近づこうとジンはマーサを引き剥がそうとするが、しつこくしがみつかれている。タクヤはハッとした顔をする。「あ!あれがヤバイやつか……コザクラさん、ここは危険だからあっちに行こう!」 おかしな様子のジンとマーサを見て、シノブはタクヤに連れられてその場からハケる。そこへリヒトが現れ、遅れてパーカーを脱いだタクヤも現れる。「そこまでだ、ニカイドウ!」 タクヤが叫ぶ。その姿を見たジンの目は釣り上がる。「マシマタクヤぁあ!告白もしていないお前が幸せを掴めると思うな!」 ジ
「あ、けっこう人いた」 入ってきたのは木村恵先輩と石川純子先輩だった。どちらも二年生で、木村先輩はキムさん、石川先輩は純子さんと呼ばれている。二人とも前の公演では制作を担当していた。人が増えてきたのでなんとなく部屋の気温が上がったように感じる。エアコンはついていないので気のせいかもしれない。「キムさん、純子さん、お久しぶりです〜!」「やっほ〜、裕子ちゃん」 裕子ちゃんの挨拶にキムさんが答える。僕とゴウさんも二人に挨拶した。「二人も成績見に来たの?」「そうだけど、その話題ちょっと広げないで」「あ、そういう感じ?」 ゴウさんの質問にキムさんは嫌な顔をする。成績はあまりよくなかった
( )内はあだ名。渡辺浩二(ナベ) 主人公。大学一年生。松本雅人(ガジン) 大学一年生。橋本裕子(裕子) 大学一年生。池田理恵(理恵) 大学一年生。岡田瞳(瞳) 大学一年生。清水智子(みずとも) 大学一年生。中島麻美(麻美) 大学二年生。林由美(由美) 大学二年生。加藤俊輔(シュン) 大学四年生。中村雄介(ブラザー) 大学四年生。山本慎吾(ポリス) 大学四年生。
「やあみんな、おはよう」 やってきたのは二年の吉田剛先輩だ。ゴウさんと呼ばれている。ゴウさんは私服がスーツというちょっと変わった人だ。今日もまたスーツとビジネスバッグを持っている。就職活動をしているわけではない。「おはようございます」「ゴウさ〜ん、久しぶりです〜!っていうか、暑くないですか?ネクタイ締めて」 裕子ちゃんの指摘通り、ゴウさんはきっちりネクタイを締めている。「ん?うん、夏だからジャケットは着てないからね。平気だよ」「ブレないですね」 僕がそう言うとゴウさんは少し遠い目をした。「北海道は暑くないよ」「あれ、ゴウさんってずっと北海道じゃないんですか?」 裕子ちゃん
「おっはよー!」 元気よく現れたのは橋本さんだった。いつものように笑顔で挨拶してくれる。「……おー、久しぶり」 僕もいつものようにおもしろみのない気の利かないことしか口から出てこない。「よかった。一人だったらどうしようと思ってたとこだよ。ナベ、成績どうだった?」 ガタンと椅子を鳴らして橋本さんは座る。洗剤の匂いなのか香水なのかわからないが、花のような香りが鼻をくすぐる。「数学は落としたけど、他は単位取れたよ。えぇと、裕子ちゃんは?」 人を苗字ではなく名前で呼ぶのはまだ慣れない。読んでいた漫画を閉じて机に置く。「私はねー、だいたい単位取れたけど何個かだめだったよ。ナベはすごいね